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【2026/06/13 11:09 】 |
ポストモダンの徹底研究


ポストモダンがちょっと気になっています。

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その他

東浩紀『動物化するポストモダン』29・45


Q毎度の御回答をありがとうございます。近頃は、形而上の事のついてうまく丸めることこそが哲学の仕事、如何にうまく丸めるかが芸と思えてきました。哲学者はみな嘘付きなのです、(私の敬愛するニーチェも)如何に真剣に嘘がつけるのか、あるい嘘を本当と思いこめることここにこそ哲学者の芸があると思います。理屈のレベルと、行動のレベルでは原理が違います。行動のレベルでは何らかの哲学、覚悟、信念が必要となるのです。(一応、私は武術を齧ったこともあるのでその際を想定しています)神に会えば神を斬り、仏に会えば仏を斬ります、その瞬間に考えている余裕はありません。また、逆もまた真です。神に会えば神に斬られれば良い、いずれにしろ斬る斬られるを決めるのは自分です。もとより自分も絶対的な形而上学があるとは思えないのですが、(というのも嘘かもしれませんが)その時代、相手(時と場)を分析し、必要な形而上学を提示するのが哲学を職業とする人の仕事かと思い始めているのです。デカルト、王陽明などは自分の信念を形而上学として再構築し、それが社会を動かしえた稀有の例と思います。しかし、一面これは危険思想でもあります。アドルフ、ヒトラーが自らの歪んだ世界観をドイツ国民のものとし、遂に戦争に踏み出した様に。しかし、西部萬氏がマルクス主義、ポストモダンと渡り歩いた挙げ句、日本の伝統を持ち出している様に、今日の社会にもは何らかの行動規範、信念=形而上学が必要なのではないでしょうか?そして、この良い(?)形而上学を提供するのが哲学者であるのか?という問いなのです。
A丁寧なご説明ありがとうございます。mgfさんの問題意識がかなり分かってきました。重ねて質問なのですが、理屈の原理と行動の原理とではmgfさんはどちらを重視されているのでしょうか?あるいは違いがあるということに注目しているだけで、どちらがどうということではないのでしょうか?それと感想を交えた質問なのですが、mgfさんは武術や行動における信念や覚悟が理屈のレベルでは「真剣な嘘」とお考えになられているように感じたのですが、あっていますでしょうか?<補足>mfgさんは、直観というものをどのようにお考えでしょうか。私はmgfさんが行動と理屈のレベルで分けている事柄を、直観と理論(=理屈)の区別でほぼ同じような問題意識をもっています。直観とは対象をとらえる際に、言語表象やカテゴリーに先んじて作用し、対象を理解するというよりも対象と一体化する、対象になるようなものだと考えています。このように直観を説明する際には、よく武術やスポーツの例を用います。例えば合気道においては、他者の力を利用して技をかけますが、この時、どこからが他者の力でどこからが自分の力でしょうか。身体においては他者と自分の区別は外見上、問題なくできますが、力に関して言えば非常に自他の区別はあいまいです。このような状況で、目に見えない相手の力を理解し、それを利用するには、足の向きがどうだからとか、手の傾きがこうだとか、それらをいちいち考えてやっていたのでは、とても思考の処理速度が遅くて技をしかけることはできません。ということは、この瞬間は日常的な思考を伴わない行為が為されていることになります。おそらくmgfさんなら、これを行動レベルの原理と呼ぶのでしょうが、私はこれを直観と考えます。私は武術やスポーツに見られる直観は行動のレベルだけに限定されるとは考えていません。思考においても、直観は働いていると考えます。例えばニーチェの著書を読んでいる時に、書いてあることはよくわからないけど、「分かった」と思える瞬間があります。しかし何が分かったのか説明してみろと言われると、言葉で説明できないことが大半で、自分でも何を分かったのか、後々考えるとよく分からないことがあります。しかし、あの瞬間の分かったという感覚は決して間違いではなく、直観的にニーチェの言葉を理解したのではないでしょうか、そして、それを言葉にできないのは直観のレベルと理論(理屈)のレベルが異なるからでしょう。それでは、本題の形而上学についてなのですが、私は偉大な哲学者や思想家の多くは、直観力に秀でた人物だと思います。彼らは思考を建築物のように積み上げていき、最終的に何か真理にたどり着いたのではなく、最初に直観により真理をつかんだのではないでしょうか。そして、それを事後的に、他者にも分かるように理論的に、物事を積み上げいく形で説明しているでしょう。そして、彼らの書いたものを読む我々は理論的に彼らのつかんだ真理を理解すると同時に、直観的に理解することも必要だと思います。おそらく直観的に理解できない著作は、書いてあることがいくら分かりやすくても、読んでいてつまらないです。そして、書いてある理論にいくつかの不備があったり、非常に難解な著作であったりしても、直観的に理解できたら、読んでいて楽しく、あつくなれます。思わず引き込まれる感じがするはずです。つぎに彼らの思想が危険なものになる可能性があるのではないか、というご指摘ですが、私は全くそうだと思います。しかし、同時にそうではなくてはならないと思います。危険かどうか、道徳的かどうかなどの判断基準は、社会的な価値基準です。哲学は社会の価値から解放されていなくてはなりません。理由はいくつかありますが、たとえば社会の価値基準は間違っていることが多々あります。もし哲学が社会的価値の枠内に収まるのなら、間違った社会的基準を改める思想はでてきません。しかし、哲学の仕事は間違った社会の価値基準を改めるためだけのものではありません。もっと大事なのは、人間の可能性を示すことだと思います。人間はああも生きれるし、このように考えることもできるし、そのようにもなれると、多くの者に気づかせること、これが哲学の使命だと私は考えています。これは、文学や芸術にも共通するものです。そして哲学、文学、芸術の存立に最も欠かすことができないのが、自由な発想です。これは社会からも、その時の道徳からも解放されたものでなくてはなりません。あらゆる可能性に対してオープンである必要があります。そうすると、必ず社会にとって危険な思想や芸術も出てきますし、社会的価値に関わりなく、どこをどう考えても間違っているような思想も出てきます。しかし私はそのことについて危機感を抱いていません。(つづく)字数限界のため
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ポストモダン
六十年代のフランス思想を中心として「近代・モデルネ」を総体として対象化し、問題としてとらえ、とくに「近代」の主意主義的個人主義、工学的・道具的理性、普遍主義的傾向(主体、合理性、形而上学)を批判する思...


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【2011/06/19 09:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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